photo by: http://www9.nhk.or.jp/kaigai/toni/
トンイの素性
トンイは1670年に生まれ、1718年、49歳で没したと伝わっています。
トンイは7歳の時に宮殿に入ったと言う記録が、息子の英祖(ヨンジョ、ヨニン君)が1725年に建立した「淑嬪崔氏神道碑銘」に残されており史実だと思われます。
ただし、ドラマ「トンイ」にあるように水汲みなどの雑用をこなすムスリ(下働きの奴婢)であったか、一説にあるように「針房」(チムバン)のお針子だったかどうかは不明です。
針房は、王族の衣服を仕立てる宮中でも格式の高い部署として知られており、選ばれた宮女しかお針子にはなれませんが、後に奴婢出身のトンイの身分をカモフラージュするために仕組まれた説かも知れません。
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トンイの両親
トンイの先祖は海州(ヘジュ、現在の北朝鮮南西部にある海州市)の出身で、その後、朝鮮半島南部の井邑市に移ったようです。
● 父親は下級役人であった崔孝元(チェ・ヒョウォン)、後に英祖によって領議政(ヨンイジョン、首相)に追贈されています。
ドラマの中では、剣契(コムゲ)の首領として登場しましたネ。
● 母親は洪氏(ホンシ)、祖父はホン・ケナム(洪季男/洪啓男)と言われ、壬辰倭乱(朝鮮の役)で手柄を立てた人物とされています。
母親の事については詳しい事は伝わっていません。
ドラマではトンイが子供の時に既に亡くなっていたような。
トンイと仁顕王后の関係
幼くして両親を失ったトンイは孤児となったとも言われ、みすぼらしい服をまとっていたところを、たまたま仁顕王后の父・閔維重が見かけて屋敷に引き取り、閔氏の使用人となったという説があります。
これが事実であれば、トンイと仁顕王后は昔からの主従関係であり、仁顕王后が王妃(中殿)に選ばれ宮中に入った時、一緒に宮殿に入る事になったとも解釈できます。
ドラマ「トンイ」では、仁顕王后との出会いは宮中に入った後の事であり、トンイの人柄に惹かれた仁顕王后が側に置き可愛がったことになっています。
トンイと粛宗にまつわる説話
19歳の時、粛宗の寵愛を受け淑嬪に叙せられ、その後淑儀に。
20歳の時に延礽君(ヨニン君、後に英祖)を生み、貴人に昇格。
4年後に淑嬪に封じられています。
朝鮮王朝後期の儒生李聞政が書いた「隨聞録」によれば、ある夜のことロウソクを灯し供物を供えて懸命に祈る宮女の姿を見かけた粛宗がその理由を尋ねると、宮女は「自分は仁顯王后の身の回りの世話をする奴婢だったが、明日が誕生日なのに廃妃になられてしまい、お好きなものを届けることすらできないので、こうして王后の好物を供えて祈っている」と答えたそうで、粛宗はその心根の優しさに感動し彼女(トンイ)を側室にし、トンイは間もなく王の子を身籠ったと伝えられています。
チャン・ヒビンを陥れたと言うのは本当かトンイ(淑嬪崔氏)の本性
仁顕王后が廃妃となった後、新たに王妃(中殿)に冊封された張禧嬪(チャン・ヒビン)は、王の子を身籠った宮女がいると聞き、トンイを連れて来て縄で縛って、したたかに打ち据えたところ、突然訪れた粛宗に見つかってしまい王の寵愛を失ったと言われます。(前出、隨聞録)
トンイが、この時、仁顕王后を廃位に追い込み、お腹の子まで殺そうとしたチャン・ヒビンの事を恨んだとしても何の不思議もありません。
後に、南人派(チャン・ヒビン)と西人派(仁顕王后)の政治闘争が激化した時、トンイは粛宗にチャン・ヒビンを陥れる重大な証言をします。
チャン・ヒビンが自分の毒殺を謀り、仁顕前王妃が病死したのは彼女が呪詛されたからであると…。
このあたりのエピソードは、ドラマでも紹介されています。
トンイは穏やかで思慮深い性格であったと言われますが、それでいて時に大胆に、したたかに生き抜いた女性であったと思われます。
陰謀渦巻く宮中で、自分は勿論、王子の命を守るにはこうするほか無かったのかのかも知れませんね。
● 悪女と言うより、注意深くしたたかに生きたのがトンイで、当時の朝鮮王宮で生き延びるためには誰でもやっていたことなのでしょう。
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参考記事:〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち27〉 したたかな素顔-淑嬪崔氏
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