ドラマ『トンイ』の中の仁元王后
仁元王妃(仁元王后、イヌォンワンフ)は、ドラマ『トンイ』の終盤55話から登場します。
彼女は少論派の重臣・金柱臣(キム・ジュシン)の娘で、仁顕王后(イニョンワンフ)の後を継ぐ王妃として宮廷入りする事になります。
ドラマの設定では、禧嬪張氏(ヒビン チャンシ、チャン・ヒビン、オクチョン)あるいは淑嬪崔氏(スクピンチェシ、トンイ)のいずれかが次期王妃候補として目されていましたが、禧嬪の毒殺刑による失脚と、トンイが王妃の座を頑なに拒んだため迎えられた正室(中殿=チュンジョン)という位置付けになっています。
※宮中の女性の身分については「内命婦(ネミョンブ)と女性達の品階」をご参照。
仁元王后とトンイ(画像引用:http://www.youtube.com/user/MBCClassic/featured)
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仁元王妃の宮廷入り直後は、トンイが世子ユン(後の景宗、キョンジョン)の座を奪い、クムを世子にしようと企んでいるとの噂を信じ警戒心を持っていました。
しかし、次第にトンイの強い希望であった「世子もヨニン君も両方守りたい」と言う真心に触れた王妃は、ついに心を動かされ、後にヨニン君(クム)を庇護する立場へと変化していきます。
そして、ヨニン君を自分の養子とし宮廷から出て行かなくても良い様に配慮するのです。
史実の中の仁元王后
仁元王妃の父親は、少論派の重臣であり、当時少論派は世子ユン(後の景宗)を擁護する立場にありました。
このことから仁元王后も世子擁護派としてヨニン君を排除する立場を取ったと言われたのでしょう。
しかし、禧嬪張氏(ヒビン チャンシ)の死後、世子を遠ざけるようになった粛宗が、ライバルでヨニン君擁護の立場を取る老論派への接近を図った為に迎合策としてヨニン君擁護の立場をとったのではという解釈もあるようです。
この後、ヨニン君は仁元王后の歩み寄りと老論派の強力な後押しのお陰で兄の景宗の後を継ぎ、1724年に朝鮮第21代英祖として王座に就く事になるのです。
※派閥については、「西人(ソイン)・南人(ナミン)とは(2)」をご参照。
(画像引用:http://www.youtube.com/user/MBCClassic/featured)
ドラマの中ではともかく、史実では仁元王妃は仁顕王后の死の1年後(1702年)に入宮する時、まだ15歳であったとされており、とても政治の表舞台に出たとは思えませんので実際はバックにある派閥の象徴として利用されていたのではと思われます。
(入宮当時、世子ユンは14歳、ヨニン君は8歳、その時トンイは32歳)
イ・サン(正祖)治世に絶大な影響力をもった貞純王后の親戚
余談となりますが、英祖の即位に多大な貢献をした老論派は後に貞純王后(インスンワンフ、仁元王后と同じ金氏の出身)を英祖の継妃(二番目の王妃)として宮廷に送り込みます。
この貞純王后ら老論派は英祖の世子(世子)、荘献世子(サドセジャ)を陰謀により死に追いやったとされています。 荘献世子はイ・サンの父にあたり、イ・サンはこの事件のせいで老論派を激しく憎むようになりました。
主な登場人物の生年と没年
- 粛宗 1661年-1720年
- 景宗 1688年-1724年
- 英祖 1694年-1776年
- 仁顕王后 1667年-1701年
- 仁元王妃 1687年-1757年
- 禧嬪張氏 1659年- 1701年
- 淑嬪崔氏 1670年-1718年
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