ドラマ『トンイ』に登場する西人・南人ゆかりの人たち
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さて、第19代国王・粛宗の統治時代は、朝鮮王朝史上最も派閥闘争が激しかった時代でした。そんな訳で、粛宗は、一日たりとも心穏やかな日はなかったと言われます。
「トンイ」は幼い頃、父親と兄を失うことになりますが、その原因は南人派内部の抗争に巻き込まれたことが原因でした。その為、父と兄を死に追いやった南人派に対して少なからぬ思いがあったようです。
ドラマ『トンイ』では、西人・南人に深いかかわりを持つ人物たちが登場し複雑な相関図を織り上げています。
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チャン・ヒビン(禧嬪張氏)とイニョンワンフ(仁顕王后閔氏)
まず、南人派(ナミンパ)によって擁立された『チャン・ヒビン』こと「禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)」。本名はオク・チョン。「朝鮮三大悪女」の一人に数えられている人物です。チャン・ヒビンは南人派の支持を受け粛宗の側室となり、一時は王妃(正室)まで上り詰めますが、ある事件を契機に側室に格下げされ、最後は毒を賜り波乱の生涯を終える人物です。
次に、西人派(ソインパ)の支持を受けたのが粛宗の王妃(正室)である「仁顕王后閔氏(イニョンワンフミンシ)」です。仁顕王后が子供を生むことができなかったので、側室であるチャン・ヒビンが生んだ王子を王世子(ワンセジャ=のちの第20代国王景宗)に冊封する問題で、南人と西人が激しく対立することになりました。
この抗争で結局西人派が敗北し多くの西人派官僚が死罪・流罪に処せられます。そして、仁顕王后は王妃廃位の憂き目にあう事になるのです。(「*己巳換局=キサファングク、1689年)」[*換局とは政局の転換のこと]
南人派の勝利により、チャン・ヒビンは王妃(正室)に上り詰めます(1690年)。一気に権勢を得た南人派は政権を独占することになりました。
仁顕王后の王妃復位と西人派の返り咲き
南人派の専横を恐れた粛宗と西人派の仁顕王后の復位運動(閔氏重定運動)の利害が一致し1694年の「甲戌換局(カプスルファングク)」により南人派は失脚、再び政局は西人派の手に移ることになります。
ドラマ『トンイ』では仁顕王后を廃位したことを後悔し、チャン・ヒビンの陰謀に疑いを強めた粛宗は、トンイ達の調査によって彼女ら南人派の罪を暴きだし、政局を一変させた「甲戌換局(カプスルファングク)」を決行します。
そして西人派が再び権力を手中にしたことにより、廃位されていた仁顕王后は王妃に返り咲くことになるのです。
一方、敗れた南人派は追放され、王妃張氏は嬪(側室)に降格されてしまいます。
チャン・ヒビンの悲劇
チャン・ヒビンの不運はこれで終わらず、仁顕王后が復位6年後に亡くなると、今度は仁顕王后を呪い殺した罪で再び裁かれ、1701年、賜薬(毒薬を賜る事)により処刑され波乱の人生を閉じます。
ドラマの中で、トンイは仁顕王后の復位に奔走し、ライバル、チャン・ヒビンの罪を暴くことに大活躍することになっています。
トンイの子、英祖(ヨンジョ)を即位させた派閥
話は前後しますが、再び権力を握った西人派は南人派の徹底粛正のためチャン・ヒビンの死刑を叫ぶ急進派の「老論派(ノロンパ)」と、彼女の子で、世子(後の第20代国王景宗)を守るためチャン・ヒビンの死刑を阻止しようとした「少論派(ソロンパ)」の二つに分かれ激しく対立していました。
老論派は、『トンイ=淑嬪崔氏(スクピンチェシ)』の息子、ヨニングン(後の第21代国王英祖)を擁立し英祖が国王の座に就くことに尽力します。
英祖からイ・サン(正祖)の時代へ
一方、英祖の息子である思悼世子(サドセジャ=イ・サンの父親)は、過激な思想集団の老論派より、穏健派の少論派に歩みよっていました。このことが老論派の危機感をあおる結果となり、思悼世子は陰謀により失脚、ついには父親である英祖から死を賜る悲劇に遭遇してしまいます。
イ・サンは父、思悼世子を死に追いやった老論派を激しく憎み、罪に加担した者たちを厳しく処罰しようとするのです。
ドラマ『イ・サン』のあらすじはこちら
この陰謀を画策した老論派と連動したのが、英祖の皇后・*貞純王后(チョンスンワンフ)の一族で、その為、孫に当たるイ・サンと仲が悪く最後まで対立する関係となりました。(*英祖没後、大王大妃、ドラマ「イ・サン」では、テビ様と呼ばれています)
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